弁護士になった想い

弁護士になった想い

私は8度目の司法試験への挑戦で、最終合格しました。

 

旧司法試験は、5月の第一次択一式試験、7月の第二次論文式試験、そして10月の第三次口述試験から成っており、これらの全てを突破しなければ合格とはなりません。

 

一般に受験生にとっての再難関は、第二次論文式試験です。私もおおいにてこずりました。5月の択一式試験には通っても、論文式試験の合格者が発表される10月上旬に合格発表を見に行き、掲示板に自分の受験番号がないことに絶望し、また勉強の日々を送らねばならない現実に途方に暮れる……ということを何年も繰り返しました。

 

すっかり年中行事と化していたそんな「不」合格発表の時期、私は毎年、司法試験を続けるべきかやめるべきかと自らに問いかけていました。ただいつも迷いなく「続ける」との結論に達しました。

 

その最大の理由は、「父と約束したから」です。

 

私の父は昔から、私が何を相談しても「おまえの好きにしろ」「やりたいようにやれ」「勝手にしろ」「自分で考えろ」としか言わない人でした。良く言えば自主性尊重、悪く言えば放任といえるでしょうか。

 

大学卒業を控えた年の2月、既に内定をもらっていたにも関わらず、私はかねてから憧れていた司法試験への挑戦を決意しました。そこで内定を辞退し法曹を目指したいこと、勉強を続けるため大学卒業後もしばらく家にいたいこと、司法試験予備校に通うお金を借りたいことなどを父に相談しました。

父は「そうか、がんばれ。何年かかってもいいから途中で諦めるな。金の心配なんかせんでいい」と言いました。例のごとく「勝手にしろ」程度の返事しか期待していなかった私にとって、あまりにも意外で、かつとても心強いエールでした。

後日二人で飲んだ機会に、どうしてそこまで応援してくれるのか尋ねました。

すると酔って多少饒舌になった父が話してくれたのです。

私が父方の祖父(私が高校の時に死去)だと信じていた人とは実は血がつながっていないこと、血のつながった実の祖父(つまり私の父の実父)は、家庭の事情で小学校卒だったにもかかわらずに苦学して裁判官になったこと、しかし戦時中満州に赴任中病死したこと、その実の祖父の弟が残された祖母と結婚し(当時多かった、いわゆる義兄弟結婚)私の父を育ててくれたこと、私は実の祖父の弟のことをずっと「おじいちゃん」と信じて慕っていたこと…それまで知らされていなかった事実にただただ驚きました。

考えてみれば、まだ理解力の乏しい子どもに、「おまえのおじいちゃんは実のおじいちゃんではないんだよ」と説明することなんて、無益なだけでなくむしろ有害なのかもしれません。

大人になってからでも、説明してもらう必要があるのかどうかわかりません。

祖父の「DNAがおまえに隔世遺伝したのかもしらんなぁ」父は冗談のように、でも嬉しそうに言いました。

 

ある時、私の司法試験への挑戦に対する、父の高い関心を伺わせる出来事がありました。

私が3人兄弟の末っ子ということもあり、父は私の成績にあまり関心がなかったようです。小学校時代以来、成績表を見せて特別なことをいわれた記憶はありません。「おまえ、がんばったか」「うん」「じゃあ、それでええやないか」それだけです。特に印象深いのは、自分としてはよくがんばった中学1年第1学期の成績表を見せたときのこと。新聞を読んでいた父の前に、「成績表もらったから」とテーブルの上に置いておくと、「お、見とく」と父。


しばらくしてからテーブルを見ると、成績表は私が置いたその位置から動かされた形跡がありません。確認するのもばからしく、成績表を見せたのはそれが最後となりました。私に関心を持ってくれていないのでは?と感じざるを得ませんでした。

思えば父は何も私自身に関心がなかったわけではないと思います。ただ3人兄弟の末っ子だったので、上の2人の成績を何度も見る内にどうでもよくなっただけなのかもしれません。ちょうど1人目が生まれた頃の写真はたくさん残っているのに、2人目、3人目が生まれた頃の写真がほとんど残っていないのと同じように。

 

私が初めて択一を受験した年のこと。発表前に、父が「いつ発表や?」と聞いてきたので、インターネットで閲覧できることを伝えました。すると発表の日に「今年はあかんかったみたいやな。来年がんばれ」と私が連絡する前に、発表を見た父のほうから連絡してきてくれたのです。あの父が、末っ子の私の成績にこんなに関心を持ってくれた…。

 

ぜひ受かりたい。父に「おまえの番号あったぞ!」って言わせたい。そしてはじめて私の選択をおおいに応援してくれた父との約束を果たしたい…そう強く願うに至った次第です。

 

ところが初受験したその冬、父は亡くなりました。最終合格した私の番号はもちろん、第一次択一式試験に合格した私の番号すら一度も確認することさえないまま…。

 

父は少しばかりの財産を残してくれました。私の貯金と併せ、節約すれば何年かは働かなくても勉強が続けられるくらいです。あたかも「何年かかってもいいから途中で諦めるな。金の心配なんかせんでいい」との言葉を実行するかのように思えました。

 

私は遺産を預けた銀行口座の暗証番号を父の命日としました。口座からお金を引き出すたびに、「これは父さんが納得してくれる使い方か?」そう自問するためです。

また父が他界した2001年冬から2008年の最終合格までの約7年間、私は父の墓を一度も訪れませんでした。

合格の報告ができるそのときまで、父にあわせる顔がないと思ったからです。父が待っているのは、いつまでも合格できない言い訳をする私ではなく、合格したよという自信にあふれた報告だと思ったからです。

 

結局、父との約束を果たしたい。そして胸を張って父に報告しに行きたいから、何年かかっても合格を諦めるわけにはいかなかったのです。

 

約束した相手が亡くなってしまうと、そして約束を交わした相手が自分にとってかけがえのない存在であればあるほど、その約束は価値を帯びるのかもしれません。

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